2011/09/16

私の美の世界

「私の美の世界」
著者 森茉莉

「私の美の世界」と題されたこのエッセイは1968年が初版となっている
箱入りで古めかしい装丁
























この作家の事をよく知らない
今さらだけど、 wikiや他の人が書いてるブログで
作品解説とか本人のエピソードなどを読んでみた

明治期に軍医としても文人としても有名な森鴎外の長女
とっても不思議な人だ
協調性とか、ガマンとか、おくゆかしさとか、大正から昭和の時代に
女性として当然とされてた部分がかなり欠落しているように思う
父親から溺愛され、お手伝いさんたちにかしずかれて育ったせいなのか
いくつになっても中身は、お嬢様のままだったのだろう

茉莉が20歳の時、結婚生活のためパリに滞在中に、鴎外は亡くなっているが
鴎外をパッパと呼び、私の恋人と呼ぶ茉莉にとって
幼い頃から「父に溺愛された日々」が森茉莉という一個人の
アイデンティティの大部分をしめているようだ

鷗外の紹介で結婚して、2人の子供をもうけるが
家事、育児にまったく興味が無かったようで、離婚

その後、仙台の大学教授に嫁ぐが
「デパートも、お芝居も無くてこんなところは嫌だ」と言ったところ
「じゃあ、お芝居でも見ておいで」と東京へ行かされ
そのまま実家に返されるという、荒技で離婚される

そして、晩年は下町の狭いアパートでの一人暮らしとなる
長く無職で暮らすが、鴎外の印税が入らなくなり
54歳にして作家として執筆を開始

家事全般は苦手だったようで、ゴミが地層になった散らかり放題の部屋で
お気に入りのこまごまとしたものを周りに置いて
こだわりの食材(贅沢という意味ではない)で自分のために料理をし
耽美的な小説、過去の思い出、日々感じる事をエッセイとしてを書いていたようで
この頃のエピソードとか、語録などを読んでみると
少々イカレタばーちゃんぶりを発揮してて面白い
特に、キライな人に関しての悪口とか悪態は本当に辛辣で面白い

1987年、自室で死後2日たってから発見される
心臓の発作のようで享年84歳

それから24年後、ふと自分の老後が気になった私は
美に対する鋭敏な本能をもち、食・衣・住のささやかな手がかりから美をつかみ、〈私の美の世界〉を見出していく著者、多彩な話題をめぐって人生の悦楽を語る珠玉の随想。 
と帯に書かれたこの本を思い出して、再読してみた

「貧乏サヴァラン」と題されたエッセイはおもに食べ物の話
全体に漂うフルクサイカンジは否めないが
茉莉が書いたたべものは
ものすごい輝きを持った特別な食べ物に思えるからスゴイ!
幼い頃に舌が覚えた味の記憶は、鮮明に残っているようで
なんとか工夫しておいしく食べようとするその執念もスゴイ!

「夢を買う話」で、源氏物語について書かれた文章は
紫と源氏のやりとりを文学として至上と書いているが
架空の人物とはいえ、光源氏を「気持ち悪い自分勝手な男」と思ってる私には
まったく共感できるはずもない

一杯の紅茶で喫茶店に一日中座ってる事も、効率の悪い料理方法も
なぜか「茉莉ならではの上等」になるようで
その矛盾というか、自分勝手さに
「茉莉さん、あなたがそれを言っちゃうの?」と突っ込みどころがいっぱい

作家本人に社会性や品行方正を求めるつもりはまったくないが
知れば知るほど、リアルな知り合いにはいて欲しくないタイプだ
読み終わっても「美しい文章で、着眼点も面白いなあ」と単純には楽しめない
なんだかなあ〜という気持ちがどこかに残る
随分昔にこの本を読んで、その時も「なんだかなあ〜」って思った
でももっと私が年を取ったら、この繊細な世界がわかるのかもと思ったけど
残念ながらまだ、理解できない
森茉莉の「美の世界」はたとえいくつになって読み返しても
現実的でガサツな私には「相容れないモノ」なんだろうか!?

今は
「私は、こんなばーさんに、ならないよう心がけたい!」
と誓うばかりだ

そして「こだわり」とか「幸福感」について少し考える
森茉莉は、老後のそんな生活を自由で幸せだと書いているが
自分が見たくないものは、見ないようにして
ゴミだらけの部屋も、お気に入りのタペストリーとタオルしか目には入ってなくて
この人にとって、自分はいつまでも森鴎外が一番愛した「お茉莉」で
住んでる部屋はパリのアパルトマンの一室だったんだろう
色々、わかってはいたけど、わからないふりをして自分を納得させてたのかなあ!?

あまりに「森茉莉」という作家本人が不思議で面白くて
作品の感想というよりは「森茉莉」の感想になってしまった
(もしかしたら、森茉莉について書かれた他の人の本を
読んだほうがよかったのかもしれない…)


2011/09/08

高野聖

「高野聖」
著者 泉鏡花

「コウヤヒジリ」と読む
泉鏡花(イズミキョウカ) 1900 年の作















電車の中で読んでたら、降りる駅を乗り過ごした
「よくある事」では、ない!
電車のない淡路島で育った私にとって電車に乗ってる状況というのは
未だに緊張感が抜けず、ふだんは絶対に居眠りもしない
そんな緊張感を吹き飛ばすほど集中して物語の中へ入ってしまった

言葉の言い回し、仮名使いも独特で、ものすごく読みにくい

ほどなく寂然ひっそりとしてに就きそうだから、汽車の中でもくれぐれいったのはここのこと、私は夜が更けるまで寐ることが出来ない、あわれと思ってもうしばらくつきあって、そして諸国を行脚なすった内のおもしろいはなしをといって打解うちとけておさならしくねだった。
 すると上人は頷いて、わしは中年から仰向けに枕に就かぬのがくせで、寝るにもこのままではあるけれども目はまだなかなか冴えている、急に寐就かれないのはお前様とおんなじであろう。出家しゅっけのいうことでも、おしえだの、いましめだの、説法とばかりは限らぬ、若いの、聞かっしゃい、と言って語り出した。


そしてこの上人(高野聖)が語る、若い修業僧だった頃
深い山中で迷い、たどりついた一軒家での不思議な話がこの物語だ
高野聖とは、高野山に籍を置く僧の事

山の中の一軒家には不思議に美しい女の人がいて
この女の人のトリコになると、男どもは動物に姿を変えられてしまう
この上人は徳が高かったのか、無事に人間の姿のままで帰る事ができた

…と、そういう話

ひとつひとつの場面が妖しく、意味深である
読みにくい文章なんだけど、じっくり読むと
その場面が極彩色で浮かんできて、心がぞわぞわしてしまう

昼間なのに夜のように暗い森で、体中を蛭に吸い付かれる場面
美しい女の人に、森の中の色んな動物が(姿を変えられた男の人)が
まとわりついてくる場面

文章は自分の中でどう画像処理されているのか考えてみた
完全な映像で浮かぶ場合は
やはり事前にテレビドラマ化されたものとか、映画とかを見て
ある程度主人公の顔、形がインプットされてしまってる場合が多い
反対に物語を読んでいるうちに
ある俳優さんや女優さんの顔が浮かんでしまったり
特定の建物を浮かべてしまう場合もある

そのへんは作者の意図として
こちらが想像しやすいように書いている場合もあるだろうし
時代もまったく架空で、名前も国籍が確定しにくい音をあえて選んで
具体的な想像を持たないように書いてる場合もあるだろう

「高野聖」は時代も少し古いし、文体が古めかしいので
具体的に映像が浮かぶわけではないけど
はっきり輪郭を持たないモノがたくさんの色を持って浮かんできてしまう
上手く表現できないけど
心がぞわぞわしてしまうかんじなのだ

2011/09/04

アマニタ・パンセリナ

「アマニタ・パンセリナ」
著者 中島らも

学生時代、サラリーマン時代のダラダラ具合とイカレ具合は
エッセイや小説のネタになってて
その滅茶苦茶な生活ぶりを読むと
灘高から、大阪芸大、サラリーマン、フーテン
酒量もクスリもどんどん増えていって、本人もどんどん壊れていって
繊細なお利口さんは、困ったもんやな〜と思う
物書きとなって自由度が増してからの、
薬物依存、アルコール依存、激しい躁うつなどは
入院しようが、オカシナ色のオシッコが出ようがまったく改善されず
晩年はますますの壊れっぷりを発揮、そして2004年
酩酊状態で階段から落ちて全身打撲、脳挫傷、
そのまま意識が戻らず52歳で死亡


中島らもの作品として紹介するなら
彼の代表作と言ってもいい長編小説「ガダラの豚」を紹介すべきなんだろう
(アフリカのブラックマジックやら、呪いやら、超能力少年やら豪華な出演者)
だけどここは、あえて「アマニタ・パンセリナ」
















タイトルのアマニタ・パンセリナはディズニーのアニメとかで
森の中の描写に出てくる真っ赤なカサに白い斑点のテングダケの学名
そう、毒きのこ

全編、ドラッグに関するエッセイだ

某雑誌を見て
南米かどこかの奇祭のルポで、男たちがたき火のまわりで
ガマガエルを口にくわえて踊ってる姿に、なぜか納得するらもさん
どうやら
「幻覚性のアルカロイドはほとんど植物から採られる
動物性のものとしてはガマガエルに含まれるくらいである」
という記述を読み、「ガマなめ」が気にかかってたようだ
ガマガエルの毒の成分のひとつは幻覚作用を起こすらしい
ガマをなめてトリップできる事を確信し
ガマの事は一応納得したように書いている

そして
アマニタパンセリナに含まれる幻覚を起こす成分ムシモールが
合成されて殺虫剤に使われていると知れば
「殺虫剤を吸う人」さえいる事に

ガマをなめ、殺虫剤をかぎ、毒キノコを喰らい
都市ガスやフレオン、硝酸アミル、ブタンを吸う連中に
「どこへ行こうというのか」
と問いかけるところからこのエッセイははじまる

目次は
睡眠薬、シャブ、アヘン、幻覚サボテン、咳止めシロップ、毒キノコ
有機溶剤、ハシシュ、大麻、LSD、抗うつ剤、アルコール

そういえば、サーフィンも、マラソンも、極めてくると
何らかの快感物質が自分の身体の中で生み出されて
一種の中毒に近い状態になるようだ
極めた最後に、自分自身の中に生まれるもの
それは「快楽」という名だったり
「悟り」という名だったり
「万能感」という名だったり

きっと、何らかの成分が身体の中に生まれて
それが作用してそんな「気持ち」を生み出すんだろう

もし、身体を酷使して極めなくても
ある種の「クスリ」でそんな「快楽」「悟り」「万能感」が得られるなら
そりゃあ、試してみたくなるのかもしれない

この本の中でも、らもさんは故・澁澤龍彦さんが
「滝で打たれて十年で得られる感覚が、ドラッグによって得られるなら
それはまったく同じ事なのであってドラッグをどうこういういう筋ではない」
といった旨で書かれた文章に多いに賛成し
鍼の先生に
「脳内麻薬のエルドフィンを鍼で増加させるツボはないのか?」
と聞いてたりする
その先生の答えが面白い
「苦痛になるツボを刺激し続けると、
つらいのを緩和するためにエルドフィンが出てくる」
う〜ん
この鍼の先生タダモノではないなあ!

だけど、そんな「クスリ」でお手軽に
「快楽」「悟り」「万能感」なんてものを手に入れたら
身体も心も、取り返しのつかないエラい事になってしまう事も
ちゃんと書かれてるから、そこをしっかり読んでね!

そして最後の章は
「ラストドラッグ アルコール」となっている
らもさんは、アルコール中毒とうつ病での入院のあとの
この本の最後の一行に
「酒はいいやつである、酒自体に罪は一切ない、
付き合い方を間違うと僕のようになってしまうのだ
僕はもう飲もうとは思わない
あの奇妙なプールであがくのは二度とご免だからだ」
と完全な断酒を宣言していた

だけど、
だけど、
死因を見ると結局はやめる事は出来なかったようだ

自戒の念をこめて記しておこおっと!