2011/09/08

高野聖

「高野聖」
著者 泉鏡花

「コウヤヒジリ」と読む
泉鏡花(イズミキョウカ) 1900 年の作















電車の中で読んでたら、降りる駅を乗り過ごした
「よくある事」では、ない!
電車のない淡路島で育った私にとって電車に乗ってる状況というのは
未だに緊張感が抜けず、ふだんは絶対に居眠りもしない
そんな緊張感を吹き飛ばすほど集中して物語の中へ入ってしまった

言葉の言い回し、仮名使いも独特で、ものすごく読みにくい

ほどなく寂然ひっそりとしてに就きそうだから、汽車の中でもくれぐれいったのはここのこと、私は夜が更けるまで寐ることが出来ない、あわれと思ってもうしばらくつきあって、そして諸国を行脚なすった内のおもしろいはなしをといって打解うちとけておさならしくねだった。
 すると上人は頷いて、わしは中年から仰向けに枕に就かぬのがくせで、寝るにもこのままではあるけれども目はまだなかなか冴えている、急に寐就かれないのはお前様とおんなじであろう。出家しゅっけのいうことでも、おしえだの、いましめだの、説法とばかりは限らぬ、若いの、聞かっしゃい、と言って語り出した。


そしてこの上人(高野聖)が語る、若い修業僧だった頃
深い山中で迷い、たどりついた一軒家での不思議な話がこの物語だ
高野聖とは、高野山に籍を置く僧の事

山の中の一軒家には不思議に美しい女の人がいて
この女の人のトリコになると、男どもは動物に姿を変えられてしまう
この上人は徳が高かったのか、無事に人間の姿のままで帰る事ができた

…と、そういう話

ひとつひとつの場面が妖しく、意味深である
読みにくい文章なんだけど、じっくり読むと
その場面が極彩色で浮かんできて、心がぞわぞわしてしまう

昼間なのに夜のように暗い森で、体中を蛭に吸い付かれる場面
美しい女の人に、森の中の色んな動物が(姿を変えられた男の人)が
まとわりついてくる場面

文章は自分の中でどう画像処理されているのか考えてみた
完全な映像で浮かぶ場合は
やはり事前にテレビドラマ化されたものとか、映画とかを見て
ある程度主人公の顔、形がインプットされてしまってる場合が多い
反対に物語を読んでいるうちに
ある俳優さんや女優さんの顔が浮かんでしまったり
特定の建物を浮かべてしまう場合もある

そのへんは作者の意図として
こちらが想像しやすいように書いている場合もあるだろうし
時代もまったく架空で、名前も国籍が確定しにくい音をあえて選んで
具体的な想像を持たないように書いてる場合もあるだろう

「高野聖」は時代も少し古いし、文体が古めかしいので
具体的に映像が浮かぶわけではないけど
はっきり輪郭を持たないモノがたくさんの色を持って浮かんできてしまう
上手く表現できないけど
心がぞわぞわしてしまうかんじなのだ

0 件のコメント:

コメントを投稿