2011/11/18

山月記
























山月記(さんげつき)中島敦の代表作、発表されたのは1942年
中国の古い説話集を題材に書かれている短編だ

ほとんどの人は高校生の頃の教科書で読んでいるだろう
あらすじもなんとなくは覚えているだろう
「李徴はどうして虎になったのでしょう?」
なんて問題がテストで出されて、
優等生らしく「臆病な自尊心と尊大な羞恥心のため」と答えを書いたかもしれない

唐の時代、若くして博学秀才ともてはやされていた李徴(りちょう)
しかし地方の役人としての身分に満足せず、役人を辞め詩人として名を残そうとする
数年のち容貌さえ変わり果てるほどの貧窮に耐えられず、挫折し
妻子のために地方の役人の職をふたたび得て養おうとするも
かつて、自分より劣る存在としてバカにしていた同僚達は上司となり
今は李徴に命を下す存在となり
自尊心を傷付けらてしまった李徴は自己崩壊、そのまま山へ逃走
その数年後数少ない李徴の友人であった袁惨(えんさん)が山道で
虎に姿を変えた李徴と出会う
まだどこかに人の心を残す李徴は
袁惨に自分の作った詩編を書き記して残して欲しいと願う
袁惨はその願いを聞き詩編を書き記す

私はこの、袁惨が詩を賞賛しながらも心の奥で
「どこか非常に微妙な点において劣る点がある」
と感じてしまうシーンが悲しくてならない
李徴に対して悲しいのか
袁惨に対して悲しいのか、よくわからない
だけど、何やら悲しいやり取りなのだ

李徴はもう人に戻る事はない
後世まで語り続けられる「詩人として名を成す」という妄執に取り付かれ
「そうたいした事はない自分の才能」をどうしても
自分自身が認められなかった

国語の教科書では、きっとそのように「自我」を通す事の愚かさ
人の才能をを認めない傲慢さ
そのへんを、青少年たちに戒めとして、教訓として
この短編を掲載しているんだろう

確かに私も、自分自身の至らなさを認めるのは嫌だし
自分が誘われなかったパーティが「すごく楽しかった」
なんて話を後で聞かされると
自分の中にわき起こる妬ましい気持ちは否定できない
そんな時は
「そんな気持ちになったら虎になってしまうよ」と自分を戒めたりもしている

しかし、今回再読してみて、今までとは少し違う感想も持った
「虎として生きるのもかまわない」とい選択だ
この場合の虎の比喩は「犯罪者」とか「社会不適合者」という意味ではない
「あかん自分」を受け入れて、自分が楽に思える道を選択する事だ

李徴は「あかん自分」を受け入れる事ができない
そのまま役人として暮らしても絶対に心の平安を得られる事は
できなかったのだろう
しかし、世の中に認めれるほどの「才能」も無い
適当にうまく、周りと自分を合わせられる器用さもない

でも、もしかしたらその「あかん自分」さえ受け入れたら
きっと「虎」としての生き方も
こんなに早く走れる、こんなに高く飛べる
自由きままに虎もええもんやなあ…と思えるかもしれない

おりしも「国民総幸福量」なる言葉が話題になっている
何を「幸せ」と思うかは、時代、場所、環境、それぞれが関係し合う
ブータンの人が「幸せと思う暮らし」は
今のこの日本で暮らす人にとって「幸福」とは言い難いかもしれない

「幸せ」というのは、自分自身を肯定してもらえる事
そして自分で自分自身を肯定できる事に他ならないと思う

まあ…
「あかん自分」を受け入れられるくらいなら
李徴は、虎にはなってないだろうけどねえ


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