2011/12/04

巷説百物語
























京極夏彦の単行本の、ぶ厚さと重さは挑戦的だ
このぶ厚い本を読めるのか?と本が語りかけてくるようだ

いくつかのシリーズがある
代表的なものとして、第二次世界大戦後の東京を舞台に
京極堂という古本屋の主人と「見える探偵」の榎木津礼二郎
(探偵に何が見えるかは、読んでみてのオタノシミ)
その他個性的な友人たちを軸に置いた百器夜行シリーズ
このシリーズの何話かは映画化もされているので、知ってる人も多いかもしれない
しかし、この古本屋の語るウンチクといおうか、モノの理といおうか
ストーリーとは別に語られる部分が長い、とにかく長い、そして漢字が難しい!
一作目からして作品名が「姑獲鳥の夏」である、読めるわけがない
(ちなみにウブメのナツと読みます)
ダチュラの毒についてとか、世間で言われる「憑きもの」についてとか
興味がある人にはとても面白い話だけど
そこはなくてもストーリーは成り立つから、ついつい飛ばして読んでしまう
だけど、また気になって飛ばした部分も含めてじっくり再読してしまう

探偵、榎木津礼二郎を主人公にした短編集「百器徒然袋」は私の睡眠薬である
眠れない夜に少しずつ読み返す
10回以上は再読してる中毒ぶりだ

だけど読みやすさなら、まずはこちらだろうと思うので
今回は「巷説百物語」をおすすめする
「百器夜行シリーズ」とはのまったく別のシリーズとして
この「巷説百物語シリーズ」がある

江戸時代末期を舞台に、御行の又一と
戯作者になる事を望んでいる大店の若だんな百介を軸に書かれている

御行って現在では聞いた事の無い職業だが
魔除けの札を売って歩く職業らしい
現実に江戸時代にその職業があったのか?とか
小説を読んでるとフィクションとノンフィクションの部分がよくわからない事が多いが
京極夏彦の小説においては、そのへんはきっちり考証されている
だから普段「小説」というジャンルをあまり読まない方も読めると思う
特にこの「巷説百物語」は一話一話の短編がよく出来てる話なのだ
オチがちゃんとある
「腑に落ちる」という言葉はあまり使わないけど
読み終わったあとには「腑に落ちた」そんなカンジになる

4話めの「芝右衛門狸」は淡路島が舞台だ
淡路島で語られるのんきな芝居好きな狸の話も
京極夏彦の手にかかると
お殿様のオトシダネなる気の狂った侍の始末の話になるのである
なるほど、こうやって伝説などというものは作られていくものなのかと
小説とはいえ、ホント良く出来てる話なのだ

目に見えてるものだけが「真実」ではなく「偶然」も「奇跡」もなく
誰かが仕組んでいる
ちょっと必殺仕置き人を思わせるストーリー展開もあるけど
京極夏彦入門としては、まずこの一冊からを勧めよう
そして巷説百物語を少し休憩して
百器夜行シリーズに行って「姑獲鳥の夏」を読んで
シリーズを行ったり来たりするのがおすすめだ

全編を読むと2つは別のシリーズであるはずなのに
江戸時代の又一の仕掛けが、時代を経て
古本屋京極堂の憑き物落としの仕事に関係してきたりする
まったく小説の中の話なのに、その人間関係とストーリーのカラミの上手さに
どこで、この人出てきてたっけって気になって
読み終わったシリーズを、またまた再読してしまうという
不思議な本である









2011/11/18

山月記
























山月記(さんげつき)中島敦の代表作、発表されたのは1942年
中国の古い説話集を題材に書かれている短編だ

ほとんどの人は高校生の頃の教科書で読んでいるだろう
あらすじもなんとなくは覚えているだろう
「李徴はどうして虎になったのでしょう?」
なんて問題がテストで出されて、
優等生らしく「臆病な自尊心と尊大な羞恥心のため」と答えを書いたかもしれない

唐の時代、若くして博学秀才ともてはやされていた李徴(りちょう)
しかし地方の役人としての身分に満足せず、役人を辞め詩人として名を残そうとする
数年のち容貌さえ変わり果てるほどの貧窮に耐えられず、挫折し
妻子のために地方の役人の職をふたたび得て養おうとするも
かつて、自分より劣る存在としてバカにしていた同僚達は上司となり
今は李徴に命を下す存在となり
自尊心を傷付けらてしまった李徴は自己崩壊、そのまま山へ逃走
その数年後数少ない李徴の友人であった袁惨(えんさん)が山道で
虎に姿を変えた李徴と出会う
まだどこかに人の心を残す李徴は
袁惨に自分の作った詩編を書き記して残して欲しいと願う
袁惨はその願いを聞き詩編を書き記す

私はこの、袁惨が詩を賞賛しながらも心の奥で
「どこか非常に微妙な点において劣る点がある」
と感じてしまうシーンが悲しくてならない
李徴に対して悲しいのか
袁惨に対して悲しいのか、よくわからない
だけど、何やら悲しいやり取りなのだ

李徴はもう人に戻る事はない
後世まで語り続けられる「詩人として名を成す」という妄執に取り付かれ
「そうたいした事はない自分の才能」をどうしても
自分自身が認められなかった

国語の教科書では、きっとそのように「自我」を通す事の愚かさ
人の才能をを認めない傲慢さ
そのへんを、青少年たちに戒めとして、教訓として
この短編を掲載しているんだろう

確かに私も、自分自身の至らなさを認めるのは嫌だし
自分が誘われなかったパーティが「すごく楽しかった」
なんて話を後で聞かされると
自分の中にわき起こる妬ましい気持ちは否定できない
そんな時は
「そんな気持ちになったら虎になってしまうよ」と自分を戒めたりもしている

しかし、今回再読してみて、今までとは少し違う感想も持った
「虎として生きるのもかまわない」とい選択だ
この場合の虎の比喩は「犯罪者」とか「社会不適合者」という意味ではない
「あかん自分」を受け入れて、自分が楽に思える道を選択する事だ

李徴は「あかん自分」を受け入れる事ができない
そのまま役人として暮らしても絶対に心の平安を得られる事は
できなかったのだろう
しかし、世の中に認めれるほどの「才能」も無い
適当にうまく、周りと自分を合わせられる器用さもない

でも、もしかしたらその「あかん自分」さえ受け入れたら
きっと「虎」としての生き方も
こんなに早く走れる、こんなに高く飛べる
自由きままに虎もええもんやなあ…と思えるかもしれない

おりしも「国民総幸福量」なる言葉が話題になっている
何を「幸せ」と思うかは、時代、場所、環境、それぞれが関係し合う
ブータンの人が「幸せと思う暮らし」は
今のこの日本で暮らす人にとって「幸福」とは言い難いかもしれない

「幸せ」というのは、自分自身を肯定してもらえる事
そして自分で自分自身を肯定できる事に他ならないと思う

まあ…
「あかん自分」を受け入れられるくらいなら
李徴は、虎にはなってないだろうけどねえ


2011/11/10

バナナフィッシュにうってつけの日








D.J.サリンジャー
1943年













サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」の読後感は
なんだか、わかったようなわからないような

私はモヤモヤしたまま、短編なら面白いのかもしれないと思って
この「ナインストーリーズ」にチャレンジ

9編の短編の中で一番印象的だったのは「バナナフィッシュにうってつけの日」
原題は [A Perfect Day for Bananafish]

ストーリーは
フロリダのリゾートホテルが舞台
主人公のシーモアは戦争からもどってきて、その疲れをいやすために
二回目のハネムーンにでかけた
彼の奥さんが母親と話す長電話の内容が延々続く(12ページほど)
どうやらシーモアは不可解な行動が多く、周りも心配してる様子
そして海へ出かけたシーモアと奥さんの友人の娘シビルとの
とりとめない会話が続く
その会話に出てくるバナナフィッシュの寓話が面白くて心に残った

バナナフィッシュはバナナがたくさん入ってる穴の中に入ってしまうと
入った時は普通の形をした魚なのに、猛烈にバナナを食べてしまって
食べ過ぎたあげく太ってしまい、二度と穴の外へは出られなくなって
バナナ熱にかかって死んでしまう

そんな話をシビルに話したあと、部屋へ戻って
拳銃で自殺してしまう

かいつまむとそういうストーリーだ
これもまた…わかるような、わからないような
この時代のアメリカの「戦争」
そして「バナナフィッシュ」が何の比喩なのか理解する必要があるのだろう
そもそも「無理に理解しようとする話」ではないのだろう
「何かを感じる」話なんだろう

とりあえず、自分の生活の中で当てはめてみて
過剰に「モノ」を摂取する事は
自分を肥大させすぎて身動きが取れなくなるから気をつけよう
というあたりで自分への戒めとしよう

いや!違う!主人公はシーモアなんだ
シーモアの心の繊細な動きを感じるんだと自分に言い聞かせてはみたが

だけどあえて思う
私はこういう繊細な心の動きを読むのは苦手だ
ウェットな話だ、だいぶ湿り過ぎだ
繊細な心の動きを感じれないなんて「ガサツな女だ」と
言われても仕方ない!
こういう繊細な主人公の心と共感して
訳された文章の見えない行間を読むような感受性の持ち主でなければ
「アメリカ青春文学」を理解したり感動したりするのは難しいのかもしれない
私には向いていない!

2011/11/09

ライ麦畑でつかまえて
























 私の20代前半
村上春樹の「ノルウェーの森」
そしてサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」
こういう本がバッグの中にさりげなく入っていると
とっても知的でオシャレな自分を演出できたものだ

私も知的でおしゃれな自分を演出したくて読んではみたが…
「いったい…何を言いたいんやろ?」という疑問マークが頭の中にいっぱいに

主人公の男の子ホールデンは、悪態をつきながらも
ナイーブすぎる心を持て余している
大人たちの予定調和的なウソっぽさに傷つきながら、自分を責めたりもする

この本を「若者達のバイブル」なんて言葉で紹介されてるのを見ると
理解できない自分は「純粋な感覚」も「少年の心」もなくしてしまった気がして
読み終えたあともなあ〜んかモヤモヤする
アメリカの青春文学は(そういう分野があるのかどうかわからないけど)
バックボーンとか、比喩が理解できていないと面白く思えないのか!?

ホールデンの本当になりたいものは「ライ麦畑のつかまえ役」
「空想のライ麦畑で遊ぶ子ども達が安全に遊べて
まして崖なんかに落ちないように見張っていてあげて
落ちそうになったら捕まえてあげる役」
多分、この本の題名にもからむ、いいシーンなんだろうけど
そのくだりを読んでも「あ〜やっぱり私にはわからん!」と

わからないので、ホールデンに手紙を書いてみた

「ホールデン
君の空想のライ麦畑では君の正義が唯一の正しい事なんだろう
君の仕事はとても重要で
たくさんの子供達が君を必要にしているように思うのだろう

そういう気持ちをずっと持っている事は大切な事なのかもしれないけど
でも子供達はちゃんと落ちないように遊べるよ
君が心配するより子供達はずっと大丈夫だよ

そして、見守って欲しいのはホールデン君自身なのかもしれないね
だけど私は、自分の身の回りの瑣末な事に精一杯すぎて
君が落ちないようにずっと見守ってあげる事はできない

だから頑張れ!自分で自分をなんとかしろ!ホールデン」


まったく情緒の無い手紙だなあ〜

2011/11/06

君たちはどう生きるか

                 


著者 吉野源三郎















昔読んだのは、もっと古くさいしっかりした本だったような記憶がある
なぜ、その本がビンボーな我が家にあったのかは覚えていない…
誰かが買ってくれたのか、いただいたものなのか、定かではない…
だけど、なぜか本棚にあった

もし、「ビンボーながら熱心な教育を心がけた母」が購入したものだとしたら
私に対しては、ものすごくいい投資になっていると思う
(母に聞いてみたが、まったく記憶には無いらしい)

15歳の主人公の男の子が見たもの、感じたものを
自分の父親替わり(父親は亡くなっている)の叔父に話し、
その叔父(といっても大学卒業したばかり)が
ノートにつづる形で話が進行していく

多分私は小学生高学年くらいの時に読んでるんだと思う
その内容はものすごく心に染みていて、言葉の切れ端もミョーに覚えていた
特に天動説を信じる時代にあって地動説を唱えたコペルニクスを例にとり
主人公の少年がビルの屋上からたくさんの人や車の流れを見て
自分も広い世の中の一分子であると気付いた日の事を
少年にとっての「コペルニクス的転換」だと言って
少年に「コペル君」とニックネームを授ける冒頭の部分が印象に残っている

「コペルニクス的転換」略して「コペ転」
大人になって、誰かのエッセイの中で「童貞ではなくなった日」の事を
「オレのコペ転」って書いてあった人がいて
「あ〜この人も少年の時にあの本読んだんだなあ〜」と
会った事もない人の初体験で微笑ましい気持ちになってしまった

そんなこんなを思い出しながら、ふと文庫本が目についたので
今の私が読んだらどう思うのかなあって再読してみた

この文庫の初版は1982年だが、原著は1937年(昭和12年)となってる
(え〜っっ戦前???)

改めて読んで素直に思った
なんてすばらしい内容の本なんだろう

そして、自意識過剰でうっとおしい12才、13才の頃の自分を少し想う
私もこんな気持ちになったよなあ…って
そして自分の心の、中途半端な正義感や
深く考えようとする姿勢のルーツの一端はここにある事も気付いた


ニュートンがリンゴの落ちるところを見て
どうして「引力」というものに思い至ったかを考えてみる話がある
林檎の実が木から落ちる
林檎を木よりも高い所に持っていってみる
2百メートルでも落ちる
何千メートルでも落ちるだろう
でも何万メートルという高さを越して、とうとう月の高さまでいったと考えたら
それでも、林檎は落ちてくるだろうか?
重力が働いている限り、落ちて来る筈だ、だが、月は落ちて来ない・・・。
どうして落ちてこないのか?
そこにはどんな力が働いているのか?
そのように考えを広げていって「引力」という力にたどり着く

そしてコペル君は、幼い頃飲んだ粉ミルクが自分のところへ届くまでを考える
牛を世話する人、乳を絞る人、工場で粉ミルクにする人、運搬する人
汽船に上げる人、下ろす人…小売り店までくる間に、無数に人が関わっていること
自分が食べるものは、網目のような人間のつながりでできていること
ひとつの食べ物にもどれだけ多くの人が関わるかということを考え
「人間分子の関係、網目の法則」という名をつける

そういえば、この本を読んだあとは
「なんとかの法則」っていう言葉にすごく惹かれてたなあ

他にも、自分とは境遇の違う貧しい友達に対しての気持ちやら
友達を勇気を持って助けられなかった事で熱を出してしまった出来事とかが
各章に分けて書かれている
そしてコペル君へのアドバイスとして
文中で叔父さんが書いてるノートの文章が本当に「いい」のだ
貧しい友達に心を痛めるコペル君にこう書いている
いまの君にしっかりとわかっていてもらいたいと思うことは、このような世の中で,君のようになんの妨げもなく勉強ができ、自分の才能を思うままに延ばしてゆけるということが、どんなにありがたいことか、ということだ.コペル君!「ありがたい」という言葉によく気をつけて見たまえ、この言葉は,「感謝すべきことだ」とか、「御礼をいうだけの値打ちがある」とかいう意味で使われているね、しかし、この言葉のもとの意味は「そうあることがむずかしい」という意味だ。「めったにあることじゃあない」という意味だ。自分の受けている仕合わせが、めったにあることじゃあないと思えばこそ、われわれは、それに感謝する気持になる
そして正義についてのこの一言も深い
世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いている人が決して少なくない。人類の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的な気迫を欠いた善良さも、同じように空しいことが多いのだ
少年少女に向けて書かれてるし
文章も、時代背景も随分古い

だけど読んでみて欲しい
だいぶ引き返せない年齢になってしまっていても大丈夫
忘れてた何かを思い出す
自分の子どもが「どうして?」って何かについて聞いてきた時の
自分の気持ちをまとめるヒントにきっとなる
そして、どこかのタイミングで子どもたちにもすすめてみて欲しい




2011/10/27

山田脩二|日本旅1961~2010

山田さんの写真集を買った





現在、淡路島に住んでいて「カワラマン」となった山田脩二さん
「カメラマン」としてのお仕事
1963年から日本中あちこち、風景やら人物やら建物やら
くっきりしたモノクロの写真
写真をじっくり見る
なんだろう?
この圧倒的な「何か」の正体は?

1970年の大阪万博の太陽の塔の顔は悲しげに見えるし
2000年に撮られてる東京ディズニーランドも
山田さんの写真の中ではちっとも「夢の国」なんかじゃない
すべてがモノクロのせいなのか
農村やら、通りすがりの子どもやら、仕事の合間にくつろぐおじさんやら
あんまり人がたくさん写っていない写真からは
楽しさやら、活き活きさが感じられるのに
船橋ヘルスセンターやら東京ビッグサイトで写している
ものすごい数の「人間」の写真からは、寂しさや、コッケイさも感じる
私はこの何枚かのすごい人数が写ってる写真が
すごく気に入っている
「感じる」のは見たほうの特権だから
まあ、私は私が感じたままでかまわないんだろう

山田さんが酔っぱらって、へろへろしてる時に会ったら
ちょっとボケた老人かと思ったけど
色々な珍騒動やら武勇伝を聞かされてるから
勝手に親しみを感じてしまってる

正直いって「写真」の良さってよくわからない
「写真集」というものの面白さもよくわからない
山田さんがどれくらい有名でスゴイ人なのかもよくわからない
この写真集の後書きを読んだら
篠山紀信さん大崎紀夫さんとの対談で
ビミョーに褒められてたから、きっとスゴイ人なんだろう

そんな「スゴそうな人」オーラはちっとも出てなくて
普段でも酔っぱらってるのかシラフなのか良くわからない時もあるけど
話せば話すほど、好きになる
繊細で人を楽しませずにはいられないサービス心と
冴えてる言葉
チャーミングなおじーちゃんだなあと
私ごときに思わせてくれる

やっぱりスゴイ人なんだろうなあ〜
























山田さんちへ行った時にサインまでもらってきちゃいました



2011/10/19

奇人は世界を征すーエキセントリックー

「エキセントリック」奇人は世界を征す
著者 荒俣宏

























憧れている言葉がある
「博覧強記」
(広く書物を読み、それらを非常によく記憶していること。知識が豊富なこと)

荒俣宏さんを紹介してる文には必ずこの言葉が記されている
そして「本」に使ったお金、使った時間
その情熱というか取り組みの姿勢といおうか
常軌を逸するエピソードの数々も書かれている
自分はマンガが好きだし、魚とかウニが好きだし、相当に趣味が変だから
自分自身が相当にしっかりしていないといけない。
お金持ちになるとか、モテるとか、おいしい食べ物とか
もう世間並みの幸せはあきらめよう
と、7、8歳の頃に考えたそうだ。
そして、そのように人生を歩み、現在もたくさんの著書を残していっている
時間が余るからと読書するのではない!
読書のために他の「楽しみ」をあきらめてしまうのだ!

私はもう…自分で「本が好き!」なんていってるのが、恥ずかしくてなってしまう
残念な事だけど「本」が主役の人生を行き切るには
あまりにも欲深く、あまりに俗物だ…

荒俣宏によるエキセントリックの定義とは下記のとおりだ
奇行に走る事を意味しない、まして自己を顕示することではない。
中心から外にいること。周辺にいて、中心の権威に属さない位置。
その位置を保ちながら、しかも中心を脅かす。
隠者であろうとしながらも、常に他者に影響を及ぼす存在である。
第一部でエキセントリックとして紹介されてる人たち
まず粘菌の研究者として有名な南方熊楠
年中裸で暮らし、カンシャク持ちで、お酒をたくさん飲むとかの
奇行の部分のみが世間に伝わっているが
明治初期に単身海外に出かけサーカス団に入ったりしながら
世界中をまわり、独学で19カ国語もマスターし
帰国後は在野の学者として博物学、民俗学の研究を続け
日本の博物学研究を世界的レベルに高めようとした人だ

その仲間として
植物学者の牧野富太郎、明治期から昭和初期のジャーナリスト宮武外骨
画家の岸田劉生などを取り上げている

そして水木しげるさんと一緒にパプアニューギニアへ旅した話
なぜか、清田益章さん(この頃超能力少年として話題だった)との
念写の実験の話などもある

第二部では海の向こうのエキセントリックとして
ウィリアムブレイク、スティーブン・ホーキング、アラン・チューリング
なども紹介している

私は個人的にウィリアムブレイクに興味を持っている
大江健三郎の「新しい人よ目覚めよ」という作品を読んで
ウィリアムブレイクという人物を知った
18世紀の画家であり詩人だが、作品が好きとかそういう興味ではない
彼は「幻視(ヴィジョン)」を体験する「感応者(センシティヴ)」だ
ブレイクは芸術家の持つイメージは生まれながらに備わるもので
決して後天的には獲得されないと信じていた
教育されたものではない、生まれつきもつ自前のイメージ
それを表現するものが「美術」であり「詩」である
彼にはありもしない光景が、視覚図像として細部までありありと見え
彼のほとんどの作品がこの「幻視」によるイメージを表したものだ
そして「天使」と「死んだ弟」と、霊的に話すことができた
霊媒を通さずダイレクトに話すということ、それにヒントを得て
他の専門技術者(版画の場合彫る人、刷る人、色を付ける人など)を介さないで
ダイレクトに銅板に書き込む版画の新しい技法なども発明したりしている
(ブレイクに関しては、あまりに話が逸れそうなので
また改めて書いてみようと思う)

第三部は「コレクターの奇説と愉しみ」と題して
コレクターと呼ばれる人たちの、おかしなこだわりやら
それ集めてどうすんの?って思ってしまうコレクションが紹介されている
そしてこんな一説が  
「女は現金と宝石しか集めない」傾向があると思う
これらは最初から「宝」として認定されたモノで
誰が見てもその価値を理解できる
そうでなければ女はそれを集めない
男はガラクタ玩具を集めたがる
他人にはまったく無価値に見えれば見えるほど
悲しく、嬉しい。
自分だけが価値を見つけ、宝に変えられるのだから
この悲しさが好きな人のことを「マニア」と呼ぶ
と書かれてるが…

好きになった人を妹に紹介した際に
 「ねーちゃん、マニアにもホドがある」と諭された経験を持つ私
この文章の意味がわかるような…
わかりたくないような…






2011/10/09

グアテマラの弟


「グアテマラの弟」
著者 片桐はいり

女優の片桐はいりさん
テレビで見てたら
個性的で不思議な人だなあと
思ってたけど

この本を読んだら
すごく好きになった

友達になりたい

旅のどこかでばったり会って
一緒にお酒をのんで
おかしなダンスを踊ったりしたいなあ〜





「人は見た目では無い」と簡単には言うけど
納得できない事が私には多々ある

この本の中でテレビに出始めた頃の事をこんなふうに書いてる
「今まで、もてあましていた細工の悪い四角い顔が
笑いばかりかそこそこのお金まで生む事を知ったのだ
埃をかぶったがらくたが
ちょっとしたお宝だったことを発見したような幸運である」

なかなかそんなふうに考えられる人は少ない
「演じる人」という自分とはまた違う自分を持つ事ができて
それが評価されて「仕事」になったから言える言葉なのかな
「片桐はいり」というキャラクターのインパクトは絶大だもの

顔が商売道具で、ベッピンさんだけが売りだと
衰えていく自分に納得がいかず、ちょっとつらい事も多いだろうけど
この人なんて年取れば取るほど、周りにもおかしな人が集まってきて
楽しい事が起こりそうな雰囲気に包まれている
うらやましいような、勇気づけられるような、そんな気持ちになった

このエッセイは、ある夏、片桐家の長女であるはいりさんが
年子の弟の住むグアテマラ、アンティグラを訪ね
体験した事、感じた事
そして家族を思い、その関係の変化などが主題

弟さんは学生時代にメキシコから南米の旅のあと大学院を卒業後
再び日本を離れ中米のグアテマラ共和国という国で暮らし始め
おまけにグアテマラ人の奥さんとその人の連れ子がいて
現地で語学学校やら薬屋さんやらを営んでいる 

ササイな出来事に民族性というものを感じる事は
差別的な意味合いではなく、ある
このエッセイで本物のラテンの人たちの様子を読むと
私たちが普段使う「なんか、あの人ラテン系やなあ」という意味が
まだまだ、アマイという事を教えられる
かなり、おおまかな性格の私も
ちょっと、ラテンの国の気質にはついていけないかも
と考え直さずにはいられない

目の前に待ってるお客様がいても
シエスタの時間は必ず守られる
他の事にはルーズなのにこの時間だけは厳守されるらしい
多民族が混血してるから見た目の個性が違ってるのは当り前
太った人に「ふとっちょさん」「おデブさん」的なあだ名は
ちっとも失礼な事ではなく、これも当り前
ほんの少しの仕事も分け合い
皿を洗う人はホントに皿を洗うしかしない
拭いたり、片付けたりは、また違う人の仕事
それを「効率」なんて言葉で「早く安く自分だけが儲けられるように」なんて
考え方をする人は少ないようだ

それにしても フツーの日本人はかなり窮屈に暮らしているなあと
再認識もした

おおげさでもなく、観光客目線でもなく
淡々とグアテマラでの日々を書いているが
目のつけどころが
「そうそう、もし私がその場にいても、それが一番気になるわあ」
と思う所が多い

片桐はいりさんは女優さんだし
ホントのところはわからないけど
でもきっと気の合う人のような気がした!!!


2011/09/16

私の美の世界

「私の美の世界」
著者 森茉莉

「私の美の世界」と題されたこのエッセイは1968年が初版となっている
箱入りで古めかしい装丁
























この作家の事をよく知らない
今さらだけど、 wikiや他の人が書いてるブログで
作品解説とか本人のエピソードなどを読んでみた

明治期に軍医としても文人としても有名な森鴎外の長女
とっても不思議な人だ
協調性とか、ガマンとか、おくゆかしさとか、大正から昭和の時代に
女性として当然とされてた部分がかなり欠落しているように思う
父親から溺愛され、お手伝いさんたちにかしずかれて育ったせいなのか
いくつになっても中身は、お嬢様のままだったのだろう

茉莉が20歳の時、結婚生活のためパリに滞在中に、鴎外は亡くなっているが
鴎外をパッパと呼び、私の恋人と呼ぶ茉莉にとって
幼い頃から「父に溺愛された日々」が森茉莉という一個人の
アイデンティティの大部分をしめているようだ

鷗外の紹介で結婚して、2人の子供をもうけるが
家事、育児にまったく興味が無かったようで、離婚

その後、仙台の大学教授に嫁ぐが
「デパートも、お芝居も無くてこんなところは嫌だ」と言ったところ
「じゃあ、お芝居でも見ておいで」と東京へ行かされ
そのまま実家に返されるという、荒技で離婚される

そして、晩年は下町の狭いアパートでの一人暮らしとなる
長く無職で暮らすが、鴎外の印税が入らなくなり
54歳にして作家として執筆を開始

家事全般は苦手だったようで、ゴミが地層になった散らかり放題の部屋で
お気に入りのこまごまとしたものを周りに置いて
こだわりの食材(贅沢という意味ではない)で自分のために料理をし
耽美的な小説、過去の思い出、日々感じる事をエッセイとしてを書いていたようで
この頃のエピソードとか、語録などを読んでみると
少々イカレタばーちゃんぶりを発揮してて面白い
特に、キライな人に関しての悪口とか悪態は本当に辛辣で面白い

1987年、自室で死後2日たってから発見される
心臓の発作のようで享年84歳

それから24年後、ふと自分の老後が気になった私は
美に対する鋭敏な本能をもち、食・衣・住のささやかな手がかりから美をつかみ、〈私の美の世界〉を見出していく著者、多彩な話題をめぐって人生の悦楽を語る珠玉の随想。 
と帯に書かれたこの本を思い出して、再読してみた

「貧乏サヴァラン」と題されたエッセイはおもに食べ物の話
全体に漂うフルクサイカンジは否めないが
茉莉が書いたたべものは
ものすごい輝きを持った特別な食べ物に思えるからスゴイ!
幼い頃に舌が覚えた味の記憶は、鮮明に残っているようで
なんとか工夫しておいしく食べようとするその執念もスゴイ!

「夢を買う話」で、源氏物語について書かれた文章は
紫と源氏のやりとりを文学として至上と書いているが
架空の人物とはいえ、光源氏を「気持ち悪い自分勝手な男」と思ってる私には
まったく共感できるはずもない

一杯の紅茶で喫茶店に一日中座ってる事も、効率の悪い料理方法も
なぜか「茉莉ならではの上等」になるようで
その矛盾というか、自分勝手さに
「茉莉さん、あなたがそれを言っちゃうの?」と突っ込みどころがいっぱい

作家本人に社会性や品行方正を求めるつもりはまったくないが
知れば知るほど、リアルな知り合いにはいて欲しくないタイプだ
読み終わっても「美しい文章で、着眼点も面白いなあ」と単純には楽しめない
なんだかなあ〜という気持ちがどこかに残る
随分昔にこの本を読んで、その時も「なんだかなあ〜」って思った
でももっと私が年を取ったら、この繊細な世界がわかるのかもと思ったけど
残念ながらまだ、理解できない
森茉莉の「美の世界」はたとえいくつになって読み返しても
現実的でガサツな私には「相容れないモノ」なんだろうか!?

今は
「私は、こんなばーさんに、ならないよう心がけたい!」
と誓うばかりだ

そして「こだわり」とか「幸福感」について少し考える
森茉莉は、老後のそんな生活を自由で幸せだと書いているが
自分が見たくないものは、見ないようにして
ゴミだらけの部屋も、お気に入りのタペストリーとタオルしか目には入ってなくて
この人にとって、自分はいつまでも森鴎外が一番愛した「お茉莉」で
住んでる部屋はパリのアパルトマンの一室だったんだろう
色々、わかってはいたけど、わからないふりをして自分を納得させてたのかなあ!?

あまりに「森茉莉」という作家本人が不思議で面白くて
作品の感想というよりは「森茉莉」の感想になってしまった
(もしかしたら、森茉莉について書かれた他の人の本を
読んだほうがよかったのかもしれない…)


2011/09/08

高野聖

「高野聖」
著者 泉鏡花

「コウヤヒジリ」と読む
泉鏡花(イズミキョウカ) 1900 年の作















電車の中で読んでたら、降りる駅を乗り過ごした
「よくある事」では、ない!
電車のない淡路島で育った私にとって電車に乗ってる状況というのは
未だに緊張感が抜けず、ふだんは絶対に居眠りもしない
そんな緊張感を吹き飛ばすほど集中して物語の中へ入ってしまった

言葉の言い回し、仮名使いも独特で、ものすごく読みにくい

ほどなく寂然ひっそりとしてに就きそうだから、汽車の中でもくれぐれいったのはここのこと、私は夜が更けるまで寐ることが出来ない、あわれと思ってもうしばらくつきあって、そして諸国を行脚なすった内のおもしろいはなしをといって打解うちとけておさならしくねだった。
 すると上人は頷いて、わしは中年から仰向けに枕に就かぬのがくせで、寝るにもこのままではあるけれども目はまだなかなか冴えている、急に寐就かれないのはお前様とおんなじであろう。出家しゅっけのいうことでも、おしえだの、いましめだの、説法とばかりは限らぬ、若いの、聞かっしゃい、と言って語り出した。


そしてこの上人(高野聖)が語る、若い修業僧だった頃
深い山中で迷い、たどりついた一軒家での不思議な話がこの物語だ
高野聖とは、高野山に籍を置く僧の事

山の中の一軒家には不思議に美しい女の人がいて
この女の人のトリコになると、男どもは動物に姿を変えられてしまう
この上人は徳が高かったのか、無事に人間の姿のままで帰る事ができた

…と、そういう話

ひとつひとつの場面が妖しく、意味深である
読みにくい文章なんだけど、じっくり読むと
その場面が極彩色で浮かんできて、心がぞわぞわしてしまう

昼間なのに夜のように暗い森で、体中を蛭に吸い付かれる場面
美しい女の人に、森の中の色んな動物が(姿を変えられた男の人)が
まとわりついてくる場面

文章は自分の中でどう画像処理されているのか考えてみた
完全な映像で浮かぶ場合は
やはり事前にテレビドラマ化されたものとか、映画とかを見て
ある程度主人公の顔、形がインプットされてしまってる場合が多い
反対に物語を読んでいるうちに
ある俳優さんや女優さんの顔が浮かんでしまったり
特定の建物を浮かべてしまう場合もある

そのへんは作者の意図として
こちらが想像しやすいように書いている場合もあるだろうし
時代もまったく架空で、名前も国籍が確定しにくい音をあえて選んで
具体的な想像を持たないように書いてる場合もあるだろう

「高野聖」は時代も少し古いし、文体が古めかしいので
具体的に映像が浮かぶわけではないけど
はっきり輪郭を持たないモノがたくさんの色を持って浮かんできてしまう
上手く表現できないけど
心がぞわぞわしてしまうかんじなのだ

2011/09/04

アマニタ・パンセリナ

「アマニタ・パンセリナ」
著者 中島らも

学生時代、サラリーマン時代のダラダラ具合とイカレ具合は
エッセイや小説のネタになってて
その滅茶苦茶な生活ぶりを読むと
灘高から、大阪芸大、サラリーマン、フーテン
酒量もクスリもどんどん増えていって、本人もどんどん壊れていって
繊細なお利口さんは、困ったもんやな〜と思う
物書きとなって自由度が増してからの、
薬物依存、アルコール依存、激しい躁うつなどは
入院しようが、オカシナ色のオシッコが出ようがまったく改善されず
晩年はますますの壊れっぷりを発揮、そして2004年
酩酊状態で階段から落ちて全身打撲、脳挫傷、
そのまま意識が戻らず52歳で死亡


中島らもの作品として紹介するなら
彼の代表作と言ってもいい長編小説「ガダラの豚」を紹介すべきなんだろう
(アフリカのブラックマジックやら、呪いやら、超能力少年やら豪華な出演者)
だけどここは、あえて「アマニタ・パンセリナ」
















タイトルのアマニタ・パンセリナはディズニーのアニメとかで
森の中の描写に出てくる真っ赤なカサに白い斑点のテングダケの学名
そう、毒きのこ

全編、ドラッグに関するエッセイだ

某雑誌を見て
南米かどこかの奇祭のルポで、男たちがたき火のまわりで
ガマガエルを口にくわえて踊ってる姿に、なぜか納得するらもさん
どうやら
「幻覚性のアルカロイドはほとんど植物から採られる
動物性のものとしてはガマガエルに含まれるくらいである」
という記述を読み、「ガマなめ」が気にかかってたようだ
ガマガエルの毒の成分のひとつは幻覚作用を起こすらしい
ガマをなめてトリップできる事を確信し
ガマの事は一応納得したように書いている

そして
アマニタパンセリナに含まれる幻覚を起こす成分ムシモールが
合成されて殺虫剤に使われていると知れば
「殺虫剤を吸う人」さえいる事に

ガマをなめ、殺虫剤をかぎ、毒キノコを喰らい
都市ガスやフレオン、硝酸アミル、ブタンを吸う連中に
「どこへ行こうというのか」
と問いかけるところからこのエッセイははじまる

目次は
睡眠薬、シャブ、アヘン、幻覚サボテン、咳止めシロップ、毒キノコ
有機溶剤、ハシシュ、大麻、LSD、抗うつ剤、アルコール

そういえば、サーフィンも、マラソンも、極めてくると
何らかの快感物質が自分の身体の中で生み出されて
一種の中毒に近い状態になるようだ
極めた最後に、自分自身の中に生まれるもの
それは「快楽」という名だったり
「悟り」という名だったり
「万能感」という名だったり

きっと、何らかの成分が身体の中に生まれて
それが作用してそんな「気持ち」を生み出すんだろう

もし、身体を酷使して極めなくても
ある種の「クスリ」でそんな「快楽」「悟り」「万能感」が得られるなら
そりゃあ、試してみたくなるのかもしれない

この本の中でも、らもさんは故・澁澤龍彦さんが
「滝で打たれて十年で得られる感覚が、ドラッグによって得られるなら
それはまったく同じ事なのであってドラッグをどうこういういう筋ではない」
といった旨で書かれた文章に多いに賛成し
鍼の先生に
「脳内麻薬のエルドフィンを鍼で増加させるツボはないのか?」
と聞いてたりする
その先生の答えが面白い
「苦痛になるツボを刺激し続けると、
つらいのを緩和するためにエルドフィンが出てくる」
う〜ん
この鍼の先生タダモノではないなあ!

だけど、そんな「クスリ」でお手軽に
「快楽」「悟り」「万能感」なんてものを手に入れたら
身体も心も、取り返しのつかないエラい事になってしまう事も
ちゃんと書かれてるから、そこをしっかり読んでね!

そして最後の章は
「ラストドラッグ アルコール」となっている
らもさんは、アルコール中毒とうつ病での入院のあとの
この本の最後の一行に
「酒はいいやつである、酒自体に罪は一切ない、
付き合い方を間違うと僕のようになってしまうのだ
僕はもう飲もうとは思わない
あの奇妙なプールであがくのは二度とご免だからだ」
と完全な断酒を宣言していた

だけど、
だけど、
死因を見ると結局はやめる事は出来なかったようだ

自戒の念をこめて記しておこおっと!

2011/08/28

アナクロニズム

「アナクロニズム」
著者 種村季弘
1985年(昭和60年)


目次をいくつかピックアップしてみる

地球空洞説
人間栽培論
モーゼの魔術
ロボット考
空飛ぶ円盤
第三の眼
……

これらの奇想にまつわる人や出来事をエッセイにしている
もし、最近に出版されてたら
「都市伝説」などという分野に入れられていたかもしれない
でも、巷の都市伝説とは、全く一線を画している

このエッセイの面白さは
具体的な文献の例をあげながらも
作者の文章があまりに淡々としゃれてるから
読んでるうちに
何が真実で、何が作り話なのかわからなくなってくる

例えば
地球空洞説について書かれたページを読めば

プトレマイオスの球殻宇宙論のあと、無限宇宙論の出現
300年を経てド・ジッター博士の誇張宇宙説により
再び有限な存在となったこの宇宙
天動説というひとつの命題が地動説という反対命題によって否定され
さらに、相対性理論によって総合されてゆくというのが
宇宙の成り立ちを論じた科学史上の通説とされる

などと、難しい説明が続き
「すっごいかしこい人が読む本やなあ、私には意味わからへんかも」
と思いながら読んでると

あまりに堂々と
地球の中身が空洞であり、内部には人間が住めるものである
という説を紹介をしている
具体的に地球のどこから中に入れるのかという地図も載せられ
天文学が太陽と呼んでいるものは「宇宙の穴」であると言い切っている

目次をチラッと読んだだけで分かるように、その他の説も
現代においては、迷信、奇想、妄想として片付けられてる説がほとんどだ
「トンデモ話」なる言葉があるくらいだから
こういう話を真剣にしてる人に会うと
苦笑してしまう人がほとんだだろう
私も、もちろん、21世紀に生きる現代人だから
読み物として楽しんでいるんだけど…

それなのに
それなのに

なんだか
私が信じてるこの世界は、私の思い込みで

地球は空洞で、レムリアやムーの人々が生活しているのかもしれない
ゲーテが語っている人造人間ホムンクルスは造られていたのかもしれない
眼病の特効薬は蟹の目玉50グラムとなめくじが効いたり
霊媒によって過去の思いが届けられたり
空飛ぶ円盤に拉致されたり…

そんな事も、もしかしたらあるかのも…
と読み返すたび、そんな気持ちになってしまう!

2011/08/24

ロビンソン漂流記

原作   ダニエルデフォー
発行   1719(イギリス)
訳    吉田健一(1951初版発行)


時間を忘れて読んだ
多分、小学校低学年10歳くらいの私

家のとなりの家畜小屋の低い屋根の上
干してあるふとんにねっころがっって
そんな自分を思い出す

















ロビンソンがひとつひとつ工夫してものを作っていき
とうとう土をこねて火にくべて「土器」を作ったシーンには
ものすごく感動して
「尊敬する人は?」って聞かれて
しばらくは「ロビンソンクーソー」って答えるくらいに
しびれてた!

モノを作る人に憧れる原点かも!?

最近になって、全訳版を読んだ

父親の教えに反発して家出、船乗りになって航海に出て遭難
運よく助けられ、商売も成功し、新しい土地でちょっと落ち着きはじめたら
生まれつきの放浪癖のせいなのか、ふたたび船乗りに
しかも目的は黒人奴隷をナイショで買うため
???
ふたたび遭難して、今度は無人島で独りっきりで生き残る

なんだかなあ…ロビンソンクルーソー
あんたも悪いところあるんじゃないの?
って突っ込みどころはいっぱい

そして、常にすべての出来事を
神の裁きに思ったり、祝福と捉えたり
生活の基本に神ありき
全訳版を読んでみて一番感じた事は
神の摂理とか、正義の問題に対しての、キリスト教的な倫理観が
この物語の本当の伝えたいところなんだろうと、いう事

書かれた頃の時代背景(18世紀のイギリス)が色濃く出ているので
スペイン人に対するイギリス人の悪意丸出しの考え方とか
黒人に対して、まったく人間扱いしていないその考え方とか
やはり、時代背景を知らなくては、理解できない部分が多い
なんといっても300年前だからね

ちょっと、大人の事情を知りすぎてしまった気分…
単純に冒険物語として再読したいなら
この物語に関しては子供向けのダイジェスト版で読む事をおすすめします!

2011/08/21

プラントハンター



初めて「プラントハンター」という言葉を聞いたのは
2008年、華道家の片桐くんの個展「凍土の星」での会場
この個展で使われてた土器を焼いた淡路島の陶芸家前田くんの風貌が
「プラントハンターの人に似てる!」という話題になって
この世の中に「プラントハンター」なる職業があるんだと認識した次第

早速、本人が書いてるブログを見つけて読んでみて、思い至った!

久住くんの話に時々登場していた「川西のせいちゃん」
この人のことやあ〜!と
直接の知り合いではないけど一気に親近感が増した

ブログが、面白い!
あまり植物に興味の無かった私だけど
仕事に対する姿勢、真摯さには打たれるものがある
そして、照れくさいからであろうチラッと時々出てくる悪ガキ文章に
「いいなあ男の子」と思う

この人の身体に走行距離のメーターついてたら
すごい数字になってるやろなあ…
とか、
時々勝手に突っ込み入れて更新されていくブログを読んでたら
どんどん有名人になっていって
とうとう、情熱大陸にも出演した!

この本も出版された

上手な文章ではないけど、人を引きつける
「え〜っ!そんな事ってありえるん?」と思える事も
彼のまわりには起こる
「それはどないするん?」と心配になるけど
なんとか、どうにかなる

すべてに一生懸命で、屈託の無い人のようだ
その屈託の無さが、たくさんの人を巻き込み元気づける
その屈託の無さを生み出しているもののひとつは
間違いなく「体力」だと思う
男の子はたくさん食べて、いっぱい動いて、大きな声出してたら
やりたい事をぶれずに持ってる人は
たいがいの事はうまくいくんじゃないかと思う
(そのやりたい事がぶれないっていうのが
一番、大変な事なんだろうけどね)

それでも
すべて上手くいくはずはない
本には書かれていないけど
ぐっと拳を握りしめてガマンした事もいっぱいあるだろう


こんな息子に「オカ〜ン」って呼ばれて
母の日に、おっかしな形の植物をプレゼントして欲しかったなあ〜


2011/08/19

百億の昼と千億の夜

奈良、興福寺の阿修羅像を知ってる? 
三面六臂の凛々しい少年の立像


教典によるともとはインド古来の異教の神で 
怒りや争い、戦いなどが好きな鬼神 
お釈迦様に帰依して、仏教を守る八部衆に入った 
…そうだ。 



この物語の主人公も「あしゅらおう」という
少女として登場する

















他の登場人物は


プラトン
シッタータ(釈迦)
ナザレのイエス
イスカリオテのユダ
ポセイドン


どこかで聞いたような名前が並ぶ
歴史上の人物なのか?
誰かの小説の作られた人物なのか
(聖書も、教典も、小説とよんでいいなら)
この物語だけのオリジナルの人物なのか?
よくわからなくなってくる


最初に読んだのは
少年チャンピオンに連載されてた萩尾望都のコミックスで
憂いある「阿修羅王」の眉のかたちが好きだった


中学生だった私には
このコミックスの世界観が、その後の私にとっての宗教観を形つくり
どんな哲学書より深くその後の人生観に影響を受けている


新星雲紀。双太陽青九三より黄色一七の夏。アスタータ50における惑星開発委員会は、<シ>の命を受けアイ星域第三惑星にヘリオ・セス・ベータ型開発を試みることになった。 
なんか、かっこいいでしょ〜!? SFでしょ〜!?

今まで聞いた事のないカッコイイ言葉がいっぱいあった


 アトランティス滅亡
 ソドムとゴモラ
 オリハルコン
 思考コントロール
 ディラックの海
 弥勒
 転輪王
などなど
意味はよくわからないけど、とりあえず、会話の中で使ってみたり…
理科のテストでまったく答えのわからない時は
「ディラックの海」って書いてみたり
冬休みの書き初めの宿題には
阿修羅王」と書いて提出したり
(だいぶイタイおかしな中学生だったようだ)


そこから、原作の三瀬龍さんの「百億の昼と千億の夜」を読んでみた
その頃の私にはあまりにも難しい文章と内容だったように思う
進化とは何?
誰が神を作ったの?神とは裁くものなの?
常に語られる終末論は洗脳?
何のための祈り?
人類はだだの実験だったの?


意味のややこしいところは飛ばしながらもなんとか読んでみた
コミックスとまた違う深い感動を感じた


すべての戦いが終わり、独り残ったあしゅらおうのつぶやきで
この物語は終わる



この世の変転は実はさらに大きな変転の一部に過ぎないのであり 
それすらさらに広大なるものの変転を形成する微細な転回のひとつにしか過ぎないというのか 
真の超越にいたる道はいったいどこにある 
すでに還る道もなく
あらたな百億の、千億の月日があしゅらおうの前にあるだけだった




15歳の私
この阿修羅王の孤独と永遠の戦いに
何かを感じたんだろうなあ…

2011/08/16

The Selby is in your place

最近買った本
トッドセルビーという写真家が
いっぷう変わった人の、職場や部屋を撮影してる写真集



トッドセルビーを知ったのは、カーサブルータス5月号の特集
写真からは、その被写体が持ってる
「オモシロサ」「ヘンなカンジ」が伝わってくる

ただの、インテリア本ではなくて
「カッコヨク」作っているんじゃなくて
きっと、トッドセルビーが被写体に興味を持って
「この人、どんなとこで仕事して
どんな人と暮らしてるんだろう?」
って思った人のお家へちょっとお邪魔して
写真撮ったんだろうなあ

カーサブルータスの紙面でトッドセルビー自身がインタビューに

「今も興味があるのは家じゃなくて、人なんだ
若い頃からちょっと変わった人に惹かれる傾向があった」

って答えてたり

「有名人の家ってだけで撮るのは好きじゃない
お金持ちがお金をかけてデコレートしたマンションが
面白いと思わないしミニマリストは退屈だ
僕がやりたいのは、面白い人たちがいて
そのひとたちが住んでる家がその人柄を反映してるっってこと」

と答えてる

最近、インテリアの本を眺めてても
なんか、面白くないなあ…って感じてたのは
きっと、その部屋に住んでる人たちの持ってるものが
「どっかの本で見た、あこがれの誰かの、あのセンス」
って感じてしまうからなんだろう。。。

この写真集に出てくる人たちの部屋は
散らかってたり
過剰にモノが多かったり(しかも、偏っている)
まったく動線なんて考えられてなかったり

正直、すべてをそのままそっくり
まねしたいと思えるインテリアなんてなかった
こんな落ち着かない部屋でよく眠れるもんだなあって思ってしまうくらい
でも
この部屋に住むこの人のところへ遊びに行きたいって思う

きっと、その部屋に、その人が住んでるって事が重要なんだ!
その部屋はその人そのものなんだって思わせるのは
その人自身の持ってる「何か」が大事なんだろうね

残念ながら、私の部屋は
「どっかの本で見た、あの人の、あのセンス」ってカンジ
でも、自分の部屋のこのカンジが一番、今の自分には落ち着く
フツーなんだなあ。。。私って。

2011/08/13

本棚

アライんちのリビングに置いてる、本棚
(誰にでも手軽に手に取ってもらえるようなものを置いてます)
気になる本、ありますか?




多分、一番よく読み返してるのは「かいじゅうたちのいるところ」
姪っ子たちのために
感情込めて、大きな声で読んでます